2004年 地域をどう変えるか |
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2004/01/13 |
1.地方の自立と住民自治(1)問題解決の糸口は足元にある 鈴木清順監督の初期の作品に「けんかえれじい」(1966年、日活)という映画があります。高橋英樹率いる旧制喜多方中学のけんか好きたちが、会津中学の昭和白虎隊と血闘を繰り広げる青春活劇です。娯楽性にあふれたストーリーなのですが、城下町・会津若松と文字通り北の外れの田舎町・喜多方の風土・住民性の違いがそのベースとなっています。 「白鉢巻っつのは、なかなか見栄えいいもんだ」 作者は、白鉢巻と頬っかむりによって二つの街をシンボライズすると同時に、会津に対する撞着と反発を感じながら、土臭くとも実利を選ぶことで骨っぽさを示そうとした喜多方の地域性を浮き彫りにしています。 ■風土・住民の潜在力を生かす実際、会津・喜多方を訪ねてみると、藩政時代に喜多方は独自の文化・産業を発展させ大阪に対する堺にも似た一面を持っていたことがうかがえます。会津藩が移入した漆器や桐細工、染め織物などの技術は、城下よりもむしろ喜多方において巧みに応用され、商品化されたからです。今もラーメンと並んで「蔵のまち」として知られるのは、そうした産業・文化の発展の成果が蔵に集約されているからなのでしょう。 江戸から明治へと続いた喜多方の繁栄の要因を考えてみると、盆地の「北の外れ」だからこそ持ち得た豊かな自然環境を農業生産に生かしたこと。武士が直接支配する城下に比べて自由な気風があり、利益追求にも寛容な考え方や創意工夫の住民気質が第2次産業を育てた。つまりは、土臭さを生かしながら実利を優先した「頬っかむり流」に起因するのではないかというのが私の仮説です。 近年の喜多方はというと、残念ながらかつての活力を失っているように感じられます。大量生産体制が伝統工芸を飲み込んでいったのがその象徴でしょうが、伝統工芸を生み出す原動力となった実利主義や創意工夫の住民性、さらにいえば「ものづくり」のベースとなってきた自然風土までが変質してしまったとは思えません。 ■ルネッサンスは内から沸き起こる現に、喜多方では、もう一度地域に目を向け直すところから新たな産業や文化を構築していこうという動きも出てきています。中心街にアーケードという「白鉢巻」をすることで蔵の街並みを台無しにした反省に立って、住民自身が街並み保全に知恵を結集しようとする動き。博物館に埋もれがちな「染め型紙」のデザインや技術を復元するだけでなく、21世紀の「喜多方モード」として全国、世界に発信していこうとする取り組み。有機生産の地場米を活用したり最先端技術を応用した酒造り、ものづくりの原点に立ち返っての漆器産業の再生といった試みが、若い世代を中心に進められています。 地方分権・地方の自立は、中央と地方の対立という構図で語られがちですが、地域の活力なしに自立もあり得ません。失ったのではなく、見失いかけた地域の資源を掘り起こし、それを生かす知恵と工夫を凝らすことができるか。問題解決の糸口は、案外と私たちの足元にあるように思われます。 (2)「分権」から「地域主権の回復」へ藩政改革の手法は、大きく分けると、米沢藩主・上杉鷹山に代表される「倹約・引き締め型」と、水戸〜江戸間の運河建設を進めた松波勘十郎のような「公共事業型」、それに西南諸侯が力を注いだ「殖産興業型」に3分類できそうです。現代に比べて大きな自治権が認められた各藩は、その具体策に知恵を凝らし、百花繚乱の観さえ見せました。ただし、その成否は、改革の推進体制によって大きく異なったようです。 ■リーダーと人材が支える改革寛政から文化にかけて6次にわたった秋田藩主・佐竹義和の改革は、行財政改革を殖産興業政策と連動させた点で注目されます。当時、中央(幕府)では松平定信が逼迫した財政の立て直しに躍起となり、地方では飢饉による人口減少に加えて、低い生産力と高い年貢・小作料のために農民のいない農地ばかりが増えるという状況。どこか現在の地方と似ているではありませんか。
政治体制を整備すると今度は、「木山方・開発方・鉱山方」と呼ばれる産業振興部門を新設し、しかも、その人選に当たっては、下級武士からも有能な人材を登用しました。また、6つに分けた郡部の行政組織を強化するとともに、農業政策を広域的に進めたのです。労働力確保・離農防止対策として副業開発にも力を注ぐ一方、足軽・百姓・町人にも教育の場を広げて教育と人材育成に当たりました。 成功したかに見えた改革は、義和が41歳で病死し、改革派メンバーの離脱によって挫折しましたが、改革の成否はリーダーら人材によるところが大きいことを物語っています。 ■地方から中央を変えるパワーの結集さて、こうした藩政改革と現在の地方行財政改革を対比してみると、借金棒引き・問題先送り型の消極策が根本解決につながらないことが明らかになる一方で、幕藩時代に比べても市町村の自治権が小さいことに気付きます。藩札の発行や藩専売制など結果的に幕府の規制を受けたり、改革のリスクを背負い込むといった面を割り引いても、地方の自主性が低すぎるように思われます。 地方分権が叫ばれ、国と地方を通じた税財政の三位一体改革が論じられながら、税源移譲一つとっても改革は入り口に立ったばかり。むしろ一連の中央の動きを見ると、過疎に悩む地方の自立よりも、都市部の負担軽減に視点を置いた議論が目に付きます。補助金削減問題では、カネの配分を通じて地方をコントロールしようとする省庁の姿勢がなかなか変わりそうもないことを見せつけられました。 国対地方、都市対過疎地という議論のフレームが鮮明になるほど、気になるのは、論議の舞台が中央にあって、その舞台上では地方・過疎地の声が必ずしも十分に反映されるしくみになっていない点です。地方に分け与える「分権」の呪縛を解き放ち、「地域の主権回復」の視点に立って地方から中央・国を変えていく力がこれまで以上に必要なように思います。 (3)住民自治は地域の視点に立って岐阜県東部にある人口約5700人の山岡町では昨年9月、約1500の全世帯参加によるNPO「まちづくり山岡」が設立されました。町内8地域の住民組織をベースに法人化することにより、それまで行政が担ってきたイベントや保健・福祉・環境保全などのさまざまな公共サービスを住民自身が支えていくことを狙いとしています。 ■合併論議機に脱・官治型まちづくり設立のきっかけとなったのは、今年10月に予定される恵那市など近隣6市町村との合併でした。合併により地域が埋没するのでは、という危機意識が一つの要因ながら、地域住民が結束することで自分たちの声を反映させていくことが可能であり、行政に頼らなくとも住民が担える分野があることに気付いたからです。 合併をめぐる議論は、役所の足し算と目先の損得に終始しがちな一方で、住民自治に目を向けさせるきっかけともなっていたわけです。 これまでの住民自治は、行政に住民が参加しても行政主体・主導による「官治型まちづくり」の枠組みの中にとどまりがちであっただけに、地方自治は新たなステップを踏み出そうとしているともいえそうです。 ■依存体質から抜け出すためにもっとも、中央による地方、官による民という二重の支配構造は根が深く、地方や民の側にも中央依存・官依存体質が根強く残っていることを考えると、ことはそう簡単に運びそうにもありません。なにせ、本来の意味の住民自治は自由都市・堺などごくごく限られた例があるだけで、憲法でさえ市町村を地方公共団体(local public entity)と規定し、地方自治体(local government)とは呼んでいないのですから。 ただ、山岡町のように、まちづくりの主人公がだれであるのか住民が目を向けつつあることも事実であり、地域を変えるも変えないも住民の意識によるところが大きいといえるでしょう。それだけに、合併問題を単純な役所の損得論で済ませるのではなく、住民を議論に巻き込みながら、まちづくりの在り方や将来設計にまで踏み込んでいくことが重要ではないでしょうか。 大事なことは、国による統治・管理の視点ではなく、地域の共同体として生活条件をどう整備していくのか、そのために住民やNPO、地域企業、市町村はそれぞれ何ができるのか、近隣の自治体や都道府県とどう連携すれば良いのか。そうした地域からの発想と視点が求められています。 2. 合併論議と住民参加(1)まちづくりの将来に焦点を絞れ2005年3月末を期限とした現在の合併特例法がスタートした99年以降、これまでに31件87市町村が合併し、今後さらに29件141市町村の合併が予定されています(1月15日現在・一覧表も)。このほか、法定協議会を設置して合併の是非を含めて検討中の自治体は約1700市町村に上っています。仮に単純計算で、これらが全て期限までに合併の合意に達するとすれば、現在約3200ある市町村は2千以下に再編されることとなります。 ■地域内分権・協働型社会も模索
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